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第2話 皇帝の誕生、デビュー、そして1冠制覇
無事に夏を過ごし、3冠への再スタートとなったセントライト記念。
1981年3月13日、北海道門別のシンボリ牧場でこの世に生を受けた1頭の鹿毛(かげ)の牡馬は、生まれついてもった気品と、生まれて20分ほどで立ち上がる力強さを兼ね備えていた。
放牧されるようになると、その仔馬は食事中の授乳を極端に嫌がる母スイートルナの乳を欲しがり、必死に食らいついていく旺盛な生命力を見せるようになった。
やがて彼は700年前のオーストリア(当時はドイツ領)ハプスブルグ家の皇帝、ルドルフ一世にちなんで、「シンボリルドルフ」と名づけられた。
シンボリ牧場の馬たちは門別、厚賀、平取の北海道の三か所で生産され、岩手県種市に移り1年間の育成の後、2歳の秋に千葉県大栄に移って本格的なトレーニングに入る。
これがいわゆるシンボリ牧場の三元育成方式であり、かのフェデリコ・テシオが確立した二元育成方式を、オーナーの和田共弘氏がアレンジしたものとされている。
また入厩(にゅうきゅう)後も、レース後のストレスを解消するために、トレセンに近い恵まれた立地条件にある千葉のシンボリ牧場に連れて行ってリフレッシュする、というやり方は実にスピードシンボリのころから行っており、素晴らしい成果をあげてきた。
シンボリルドルフは3歳の6月に美浦の野平祐二調教師のもとに入厩した。この時、初めてシンボリルドルフに跨がった岡部幸雄騎手はその印象を、
「まず驚いたのは3歳の6月の時点でこれだけの調教ができている馬がいるのかということでした。仕上がりが早いということではなく、競走馬としてほかの3歳馬と比較して、半年も1年も差があった」
と語っている。
この時点で野平調教師も親しいトラックマンに、
「来年の春にはいよいよウチの厩舎(きゅうしゃ)に報道陣が殺到することになるだろう」
ともらしたという。
シンボリ牧場での乗り込みが十分であったため、美浦トレセンでは時計らしい時計は芝コースでの1本だけであったが、シンボリルドルフの仕上げは万全だった。
デビューは1983年7月23日、新潟3レースの新馬戦であった。
過去、夏の新潟デビュー組から1頭もダービー馬は出ていないというジンクスが確かにあった。実際に北海道に比べて、新潟の夏は暑さが厳しく、それだけ馬の疲労も大きいことは事実である。
なぜ陣営は期待の大きい逸材を新潟にもって行ったのか…。
2分1秒1の皐月賞レコードでなんなく1冠を手中にした。
当初、兄のシンボリフレンド同様に札幌でという案もあったらしいが、シンボリフレンドが札幌の忙しい競馬で砂をかぶり、気性の悪さを出してしまったという苦い経験から、新潟で1回だけ使うことになったという。
この時、野平調教師は岡部騎手に、
「1000という距離を意識させないで、1600の競馬をさせてくれ」
といったという。いわゆる1000メートルのレースのように出ムチを使って最初から飛ばしていくのではなく、いいスタートを切って、抑えて、直線で追い出すという競馬を覚えさせてくれということであろう。
そして岡部騎手が3、4番手から直線でシンボリルドルフを追い出すと、アッという間に他馬との差が開き、最後は抑えて2馬身半の差がついていた。
2戦目の1600メートルのいちょう特別では、シンボリルドルフとのコンビで「2400メートルの競馬」をして見せた岡部騎手は、弥生賞でもう1頭のお手馬ビゼンニシキとの選択を迫られたが、
「選んだほうが強いほうです」
という言葉どおり、迷うことなくシンボリルドルフを選んだ。
いまにして思えば、岡部騎手の言葉にもかかわらず、この弥生賞でビゼンニシキがシンボリルドルフを抑えて1番人気なったことが、不思議な気もするが、プラス18キロの492キロという馬体重がそうさせたのかもしれない。レースは2頭のマッチ・レースにはなったが、1馬身4分の3の着差はどこまでも詰まりそうになかった。
続く皐月賞ではシンボリルドルフの馬体重はマイナス22キロの470キロとなっていた。弥生賞のレース中に外傷を負って、4日間馬場入りを休んだため、そのぶんを取り戻そうとハードな調教を行なった結果であった。
レースはまた2頭のマッチ・レースとなったが、シンボリルドルフはビゼンニシキをまったく寄せつけず、2分1秒1の皐月賞レコードでなんなく3冠の第一関門をクリアしてみせた。
池江郎師 格別3度目の菊
2005年10月24日(月) 6時4分 スポーツニッポン
レース後、池江調教師(右)と武豊騎手はガッチリ握手(中央は金子オーナー)
「ヒヤヒヤした。大丈夫か!?と思ったよ。楽な気持ちで競馬を見ることなんてできません」。池江郎師は何ともいえぬ笑みを浮かべた。ゲンをかついで帽子の色と同じ青いネクタイを締め、青いチーフでスーツを飾った。「馬体重は4キロ減っていたが、厳しいトレーニングをしてカイバも食ってのもの。馬が自分で調節したのだろう」。状態には自信を持っていた。86年メジロデュレン、90年メジロマックイーンに次ぐ菊花賞3勝目は格別だった。
札幌競馬場で夏を過ごしたディープインパクト。そのそばには常に池江郎師の姿があった。馬体を洗われる最強馬を飽くことなく眺め続け、ときには自らバケツに水をくんでインパクトに与えた。「僕らの仕事がなくなっちゃいますから」と市川厩務員、池江助手にたしなめられた。「先生自身がインパクトの一番のファンかもしれんな」。池江助手はそう言って笑った。
79年秋に厩舎を開業。同年は29戦未勝利。初勝利は翌年2月、実に38戦を要した。新調教師が勝てないでいる時「あの池江先生も初年度は未勝利だった」というのはトレセン定番の慰め言葉になっている。そんなどん底からスタートした厩舎がついに3冠をつかんだ。
「シンザンの菊花賞を思い出したよ。あの時の菊によく似ていた」。目尻のしわに深い年輪を感じさせる名伯楽も、夢をかなえた。
[ 10月24日 6時4分 更新 ]